昭和53年01月06日 朝の御理解
御理解第 54節
「徳のないうちは心配する。神徳を受ければ心配はない。」
心配はないと言う事は、もう愈々神様を信じきり、又は神様から信じられた姿だと思うです。神様を信じそして神様から信じられておる姿。そういう本当に心配はないというほどしの信心を目指すと言う事は、結局おかげ信心ではダメだ。本当に御神徳を受ける、いや本当に信心を分かる。本当に信心を求めて、と言う事になりましょう。信心を求めての修行であり、又はお参りであり御用でなからなきゃならない。
おかげを求めてのお参りであり、おかげを求めての御用でありお参りである、それでは成程おかげは受けても、心配がないと言う様なおかげには繋がっていかんのです。どうでも私はこの、今日からのこの寒修行にはね、そこんところにいわば一生懸命のものをかけたい。昨日壮年部会でしたから、皆さん西岡先生の司会で、まぁ皆さん一人ひとり発表をなさいました。
それぞれに素晴らしい、いうならば新年の豊富と言った様なものを、語られます中に、最後にそうではないけれども、本当に信心を頂いておって、果たして自分はどうかと、思うた時に、自分の信心の、本当のもんでない事に気付くと言った様な意味の話しを、一番最後に繁雄さんがなされました。ご承知のように弟さんの勇さんが、あんな寝たっきりになっておられますし、子供達は2人ながら勤めに出ます。
それで最近病院に入院されました。ちょうど娘が嫁入っておるところの直ぐ近所でもあるから、自分が時々行って見る事も出来るし、まぁ完全看護らしいですけれども、まぁそういう事であちらへ行きました。先日正義先生もあちらへ見まいに行ってから、先生どうかいっちょ、あんまりした病院ですから、どうでもどっか都合の良いところに変わるように、お繰り合わせお願いしますというて、正義先生は従弟になりますからね、お見舞い行ってそれ言ってましたが。
まぁ繁雄さんも先日、おい出られてからの、まぁ見てきた様子をね話されました。もう沢山なもう年寄りばっかり、本当年寄りばかりで、もう動きも取れない年寄りばかりで、もう本当にこれが現代のうば捨て山だろうかと思いましたというておられます。もうあほう、あほういうちからもうこんな、もう明くる日は何時息が切れるじゃろうちうごたる人達やらね。もうそれがその、その看護婦が沢山の患者おる中に一人しかおらんそうですたい。
それでのう便所に行きたいち、ちょっと待っとってくんはんの、ちいうちからそのまぁすぐ手伝ってくれんらしいです。もうそういう中でまぁ行かれたところが勇さんが非常にその嘆かれて、もう私ももうここでしまえるじゃろうと。というてまぁ悔まれたというのです。ほんであのずっと体中をこう揉んでやりながらね、勇てお前信心しよってそげな実ないことは言うなち。そげな実ない言い方があるもんかち。
何のためお前信心しとったかち。ちょいとお前の隣を見てみれ、もう今にも息の切れそうな年寄りが何人もこうやって、ベットを連ねて寝ておられるじゃないかと。お前も実なかろう。きつかろうけれどもです、この隣のベットの人がいやこの病室の年寄りが、どうぞおかげを頂きますようにという、願いを祈りをどうしてもたんかて。一所懸命お前は信心はどこにおいておるかというて、まぁ色々まぁ一生懸命話された。病室のその人達もねやっぱ病人さん達、年寄りも一生懸命やっぱそれは聞かれたと言う事です。
私はそれを聞いて思いました。本当に私共がもしなら、そういう立場にたった時に、果たして、隣のベットの人達の、いわば、もうこの世のうば捨て山だろうかと、いう世の中にあって、自分もここに捨てられたような感じが起こるのか、それじゃなくても、例えば下のものまであつこうてもらえる。しかも病院代、恐らく殆どいらんような、いらんのでしょうね。
それやら食事もちゃんと三度三度与えられて、いうならば雨露しのぐしかも病院でさぁという時には、直ぐ注射でもしてもらえると言う所におるというだけでも、実をいうたら、有り難いことじゃなぁ。勿体無いことじゃなぁという、その有り難いものが湧いてこない信心ならもう詰まらんて。いよいよ何かの時に、もう私ごたる不幸せな者はおいならん、と例えば嘆くようなことでは詰まらん。周囲を見てみれ、まだお前よりも、実ない人が沢山ここには、ござるじゃないかと。
一生懸命大祓い信行させてもらい。一生懸命この病室に一緒にいわゆる苦しんでおられる年寄り達のことを思え。お前その中でも一番若いとじゃから。というておる間体を擦りながら、まぁそんな話しをしたという話を聞かせて頂いてです、本当におかげ信心であったら、皆そうだろうと思うです。力を頂いていない。信心の有り難さというものに、おかげの有り難さに溢れておるけれども、信心の有り難さに触れていない。
どんなにいうならば、素晴らしい、それが例えば病院であってもです、もうやはり同じ不平不足しか出らんだろう。
もう後どうせ私はここで死ななんじゃろうというようなことでは、神様にあいすまんというて、なら教えたからというて出来るもんじゃない。自ずから湧いてくるもの。有り難いというもの。こういう中にあって、こういう中にあって、まぁ自分の体のいうならば、実ない中にあって、人のことが祈れれるというか、お礼が言えれるというか、そこに一人の信心者がおるために、その同質のものが、いうならば潤うてくるぐらいな信心を頂いておかなければ。これは信心を頂いておかなければ出来ることではない。
今日私ご神前で今日の寒修行のことをお願いさせてもらいよりましたら、鬼の角をこうやって切りよるところを頂いた。大きな鬼の姿の角がこうはえとる。その角を切りよるところ。そこで私は早速あの思わせて頂いたのは、ははぁこれはあの角は勿論お互いとらなきゃなりませんけれども、あの力を受けよということだなぁと思いました。あの人はもう仕事の鬼だという風に申しましょう。ね、仕事に熱心な人のことを、あの人は本当に仕事の鬼だと。もう仕事に熱中する。
だからこの寒修行にです、私共は本気で信心の力を受けるために、一つこの寒修行にかけなければならん。力があるから心配はないのです。力が出きるから力がないから、ちょっとどうかしたらもう直ぐへこたれたり、不安であったり心配であったりするわけです。だから本当に例えば今苦しい所を通っておるとか、難儀をもっておるという時ほど、その力の頂けれる信心が出来る時です。
どうぞこれによってをおかげを頂かせて下さいじゃなくて、これによって力を頂かせて下さいという信心になるからね、私共でも力を受けておるとするならば、いよいよ食べるに食がない、着るに衣がない。住まいがないと。もうそれこそ難儀尽くめの中にあって、次々と身内の者が亡くなって行くと言う様な状態の中に、私は力を受けたと思うです。昨日壮年部長の松岡さんが、発表しておられました。今年は「合楽建設の願い」という事が、元旦祭に、親先生がお祝詞に奏上された。
もう今年はこれにかけたいと思います。合楽建設の願いにかけたいと思うと。それを色々具体的に色々お話しをなさっておられました。そしたら私は御神願に頂きますことがね、男のシンボルを頂きました。しかもそれがぐにゃっとしとるとじゃん。いかに今年は合楽のいうなら建設にね、今年は元旦にも申しましたように、生みなす信心だと云われております。もう今年はどうでも生みなさなければ出来ない。信者の一人ひとりが生みなしていくおかげを受けなければ、合楽建設はできません。
そのため、いかに決まってです、どうでん今年は合楽建設にかけるというてもです、で私はそんな風にはもうしませんでした。後で何遍も言いました。皆さんが気が付かれたかどうかしらんけど、いくらそれば願うたっちゃね、ちゃんとせんならダメだよち私が。松岡先生が気付かれたか知らんけれどもね、ちゃんとしとならければ生み出す力にはならんて。合楽のここの天地岩なんかがそうです。あれはここで陰陽石と言われる。それを天地巌とも言ってる。
それこそ男のシンボルそっくりですよ。横から眺めますと。それにこう注連縄がこうはってある。しかもそこからです、ここへ石を据えたその時点から椿が芽を出したんですからね岩の中から。椿というのは、いうなら木偏に春と書いてあるでしょうが。心がある青春青年。だから楽建設にかける、どうでも今年はおかげ頂きたいというて、いうてくるだけで、いうならばちゃんとしなかったら、生みなす働きになってこない。
昨日私金光教法学、今月のが来とります。その中にこういう教祖様のみ教え、お言葉がこれは出ております。金光大神の御理解とあるですね。それであの御理解、あの御理解には出てない、沢山な御教えがあるわけです。それが毎月こんなしてあの出てくるんですけれどね。この中に「金光様、お伺いいたしたい事があります。神様を拝む時に、心にふっと思い出す事がありまして、仕方がありません。
思い出すまいと思っても、出れば仕方がありませぬが、これはどうでありましょうか、と伺ったら教祖が、それは子を拵える時のことを考えてみい。そうすりゃ一心がでるわいとおうせられた。」とあります。今日は丸っきり性教育のごたる(笑い)。しかしもう本当にそうです。一心が出らんとか、雑念が起こるとかと、子供をこさえる時のことを思うてみると一心が出るとおうせられる。だから一心が求められる。いうなら神様との交流。そこから生みなされてくるおかげが、本当のおかげなんです。
それをご無理をいうて地団駄踏んで、例えば朝参りをして、どうぞどうぞこれが成就いたしますように、おかげ頂きますようにというのは、生みなすものではなくて、神様にいわば強引にね、まぁ無理難題を神様に言うておるようなもんですよ。でもあんまり願うからというて、まぁおかげを下さるんですけれども、問題は生みなすということ。そのことがです、交流するということそのことがです、神様との間にいわば信じ信じられる仲が生まれてくるのです。
それが今日皆さんに聞いて頂こうとする、「お徳を受ければ心配がない」。もう神様と親戚付き合いが出来る。そういう信心を一つ身に付けたい。私が今日頂きました、その鬼の角を切っておるところという事はです、勿論心の角をきらなんという事もあろうけれどもです、改まらならんということもあろうけれども、私は今日はそこをいうなら力を頂く信心の鬼になれと。
もうその本当にね、あの力を頂く時にはね、もうそれこそへとへとするごたるですよやっぱ。けれどもねそこをやり抜いて行く時にです、力を受けるんです。皆さん本当にね、力というのはそんな簡単なことじゃ、朝参りしたぐらいなことでは頂かれんです。もう本当に神様が与えてくださる、例えば難儀なら難儀。困ったなら困ったことを、それこそ泉尾の先生じゃないけれども、ご神願有り難うございますというて、頂いていって始めて力が出きるんです。
実際神願なんだから。氏子に力を与えたいという御神願なんだから。そこをなら合楽ではね、成り行きを大切にするとか、総てのことに御の字を付けてと、まぁ上品にいう訳ですけれども、やはり先生が、泉尾の先生が言われるように、もう直接御神願有り難うございますという方が勢いがある。成り行きを大事に尊ぶということなんですよやはり。よくよく分かって見ればみるほどに、御神願であることが分かるです。だからどういう難儀な時にあっても、それをいうなら神願有り難しと受けて行けれる。
昨日福岡の高橋さんが、少しまとまった金を銀行から、用意しなきゃならない。ところがもう非常にまぁなんと言うでしょうか、そのタイミングが悪いと言うでしょうか。もう条件がもう全然足ろうとらん中に、強引に貸してくれとこう言う様な、場合になっとったんです。だからどげん言うち行っていいやら分からんという訳ですよ。これはどこかち言われたら、もうそれだけでも出来ん。これはどうかちうたら、それもまだ足ろうとらん。それで私は、あの神様にお願いさせて頂いたら、兎に角行きなさいち。
例えば足ろうとらんでん、足るようなちゃんとおかげを神様が下さる。というてあの奉るという字を、あの草書で書くとこういう風になりますね。奉るという字はこう三本書いて大という時を書きますけどね、けども片一方のはこうしなくても、これだけであの読むでしょうが奉るということ。これ草書で書くと片一方だけでいいわけです。この片一方だけならいいばってんその木がない。中に木を書かんならん。こうこう書いてから木がないところを頂くんです。
だからかげとったちゃかんまんと、その木を書いて木でその木でいきゃね、おかげになるて私が。まぁいうなら強引にその、まぁいうならば銀行の方も聞いてくれるとこういう。足りなくても、あれもない、これもないでもね、これがなくても、これを、神様は草書で読んでくださる。けどもそこに、その木がなからなければ、もういよいよしら字になってしまうでしょう。
なかにカタカタのキの字がなかったら、ね今分かるだろう。後から帰ってからようとこりゃ考えてください。もうそれこそまぁ強引に昨日はいかれました。まぁおかげで大体出来ることに話しがついたところです。行き掛けに私が頂きますことは、これを夕べも私は、今そのことをいう、こうだということを言うては、力にならんと私が思いましたから。頂くのが、ちょうどあの蔓しのぶというのがありましょう。そりゃしのぶじゃないですもん。つるしのぶのような感じで、こうぶら下げてある。
それがその下を積んであるのが、わらずさでこう積んであるところです。だからこれを大地に持っていきゃですね、もうそのまま藁は肥やし、肥料になって行くだから今ぶら下げておられるということが力を受ける。受けておる時。つる下げられておる時なんです。けどもこれをなら土の信心です、いわゆる土の信心でいうならば、もう一切黙って受けて受けて受けぬこうと、例えばいっ、実意丁寧に話して、出きんちうならもうできんでんかんまんと、言う様な例えば腹を作って行くということがです。
これはぶら下げられておるということが、地に植えたような事になりますから、こりゃこれが立ち植えになっておったり(なんか)だったら、いけませんけどね。これが藁がつるしてあるということは、こりゃもう直ぐ腐ってかえって根ごやしになる。そういういうならばぶら下げられておるところから、もうままよというどん腹据えて、かかれとこういうこと。そのどん腹据える時に、力を受ける。おかげを受ける。そしてなるほど神様は間違いないのというおかげがそこに現れてくる。
で昨日、高橋さんも壮年部会に来ておりましたから、あの今こそいうけれどもね、あんたが行き掛けに実はこういうことを、頂いたんだと。けっしてそれを先に頂いていったぶんじゃね、もう行くまいが。だから自分でもいよいよしら真剣、本気でいうならばその交渉にも金借りにも、まぁ行ったわけなんです。そしたらまぁおかげで、まぁ一両日中のうちに、ならあんたがしようというところまでおかげを頂いた。そういうところですから、やっぱ苦しいことは苦しいですよ。
もう金の無い時に金借りいったり、証人に版もらいげいくごと辛いことはないです。けれどもね、そこになら彼が力を受けなければならん。と思うから私が突っ放したように。昨日そこの合楽食堂の中村さんが、もう何時の場合でも、このことを思います。親先生があるお願いをした時に、あの中村さん親心というのはね、はぁこの寒かとに寒かろう寒かろうというて、一枚も二枚も着物を着せるのも親心ばってん。寒かの表ばちっとばかり走ってこんのち。しと着物一枚ぐらい脱がれる。
というのも親心ばいという、教えを頂いてからもうどんな場合でも、私は子供に対してこのことを持ってしますとこういう。本当の親心というものは、はぁ寒いのそんなら綿入れ一枚きらんのというのじゃなくて、着物一枚脱がんのちして表口走ってこんのと、これが本当の親心だと頂いて、そのことを有り難いと思うて、昨日でしたそのお届けがあっておりましたから、夕べもその話しをさせて頂いたんです。
で私が昨日高橋さんにはっさい、私がその生き方をとったわけです。そうして力を受けて初めて親先生有り難うございます。おかげを受けて有り難うございますなら、誰でんいう。力を頂いて有り難うございますということにならなければ出来ん。だからこの寒修行は皆さん、どうでもそのおいの角んないところね、力です強い。力を頂くことのための一つ寒修行は、そのための修行であり精進だと一つ思うて、いよいよ信心を頂くという姿勢で、その寒修行にはまられたら有り難いと思います。
昨日研修の時に、昨日のありゃ朝の御理解ね、あの神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き、身代も出来ると。神の大恩を知るというその手立てがね、やはりあのおかげを、おかげ信心ぐらいなこっては神の大恩は分からん。本当におときをお徳、これが力であろうか、お徳であろうかと言う様な頂きそめて初めて、もう今まで感じなかったところに、いうならば、これが力であろうと思うようなものを、身に感ずることが出来る。第一あんたどんが、場合なんか電気でんなんてんつけっぱなし。
水は使いっぱなし。もうつけんでよかところでん電気はつけとる。もうこれだけで神の大恩を知っとらん証拠ばいち、私は昨日申しました。とても神の、神の大恩が分かったらそれこそ見かけはもう、これ以上のあのけちん坊はなかろうというくらいに始末倹約が出来なきゃならんて。神の大恩が分かるのだから、ひとすくいの水でも、大切にせずにはおられん。一粒の米じるも美味しく頂かにゃおられん。
だから結局あの理屈で言えば神の大恩は直ぐ分かるけれども、自分の実感として頂くということは、力を頂かなければ分からん。神の大恩が分かれば子孫も続き、身代も出来、一年勝り代勝りにおかげを受けられると仰るほどしのおかげを頂く為に、どうでも神の大恩がわかりにくか。そしてならこの神様はです、電気をどんどんつかうという、もう使わにゃん時使わんなら、神様は悲しみなさるです。
かえって。そりゃ本当のけちん坊じゃから。けちん坊みたいで、大恩が分かるから、そうせずにはおれない。いわゆる甘木の初代なんかの場合は、神の大恩をこれほどしに深く広く分かっておんなさった方はなかじゃろうて思うて。それこそ枯葉枯枝一枚一本でも神様の御物として、尊ばれた大事にされたというのですから。神の大恩が分かっておるからそれが出来る。なんでんかんでん、ろくそうな使い方をする。神の大恩が分かっとらんから、そういうことをする。
先日栄四郎があるちょっとしたことを、控えでもらわんならんけん、あのメモしておく。もらう持って来てもらうように言いましたら。あの祓えつもののあの洋紙の裏に書いてきております。お前はそれこそ馬鹿じゃなかかち。それこそこげなことにだん、こげん紙でんなんでんちゃんとこげんとっといてから、もうこれにあの頂いた神様のみ教えなんか、メモするぞと。もういよいよもう使われんという物でも、生かすということが信心だよと。これ一枚いくらかかると思うかと。
しかも新しいもんな裏に、ちょっとそのたった一口で書いて来る事こんなものに書いてきて、もうそれを平気でする人達があるのに、私は驚きます。神の大恩が分からんからです。神の大恩が分かったら、もう始末倹約しにゃ居られんです。それでいてならこと、神様ごと、それが必要な時には、もうどれだけ使うてもよい、そういう生き方にならにゃお徳がうけられない。
どうでん私は昨日は、いかに信心というても、おかげ信心では、詰まらんかということを私は昨日研修の時に話した。私がまだ福岡で修行の時分に、福岡教会にお参りをいたしておりました。三代の吉木辰二郎先生が、ある時に参ったら、誰んお参りしとらんじゃった。そしたら大坪さん、これはあんただけに見せるというて、がり版刷りのこんなひろうして、がり版刷りの、まぁこんな半分ぐらいな厚さの物を見せて下さった。
それはなんと三代金光様がお話しになった話しを、あの速記してがり版にしてあるのであった。その当時先生がまだ壮年教師の時に、ご本部で壮年教師の研修会があった。その時金光様もまだ若いわけですね。そして金光様がお話しになった時に、金光様の御霊徳時代を話しておられる。もうそりゃもうびっくりすることが書いてある。それこそだからもうあれは、今の教団ではあんなものはそれこそ出しはしますまいけれども。
これはだから私は昨日桜井先生にあの、あんた達あそこで修行しちゃったからですね、それ知っとりなさるですかちうたら、いえ見せて貰った事はありません。してみるとやっぱ私によっぽど信用しておられたろうと思うんです。これ大坪さんあんただけに見せる、誰んお参り知らなかった。それこそ二、三十分ぐらいかかって、読ませて頂きましたがねその中に金光様がね、死霊生霊を肉眼で拝んでおられた時代のことが書いてございました。私もそんな時代があったです。死霊生霊を拝んだ時代がありました。
ある時にお賽銭の周囲をぐるぐるぐるぐる回っておる先生がおりますから、どこの先生だろうかと思いましたら、○○教会の○○先生でしたといわれた。ある時お供え物のぐるりを、ぐるぐるぐるぐる回っておる信者、先生がおりましたからどこの先生だろうかと思いましたら○○教会の先生です。こういう先生の所では御比礼は立ちませんと仰った。だから私は信者にだけです。
おかげ信心じゃいかんぞおかげ信心じゃいかんぞ、本当の信心せにゃいかんという先生自身がです、はぁまちっとお供えが多なったならよかろう。あげんお賽銭があがったら、さぞよかろうちうて、ご本部参ってから、そげな事ばかり見てきよる。そげなこっちゃなか自分自身がね、先生自身が助からなければ駄目だよ。その助かった余波が難儀な氏子も助かって行く事になるんだ。例えばお供え物とか、お賽銭なんかには目もふれちゃならん。ある時に私の周囲、御結界の周囲をぐるぐる回って、私のこの羽織にね手を触れたり、袴に手を触れたりする、先生がありました。
こういう先生の所では必ず御比礼が輝きますと仰った。皆さんこの話しの中からですね、いかにおかげ信心がつまらんかと言う事が分かるでしょうが。いやおかげは受けますよ。けれども今日言うその心配はないと言う様な、力やら徳やらは受けられんという事です。おかげ信心では。そりゃ願わずにはおられませんよ。商売繁盛も願わにゃいかん。集金のこともお願いにいかん。金銭の困っとるならお繰り合わせも願わないかんけれども、その事を通してですよ。信心を頂こうその事を通して力を頂こう。
昨日高橋さんじゃないけども、もう八方塞がりでどうにも出来ない。銀行から借りる他にない。銀行にはこんな条件では絶対貸してくれないことは分かっている。分かっているけれども、神様がいけと仰るからとてもいかれん、そげなことじゃいかれんいかれんとこばいけと。神様はね奉るのこの草書で書いた。これでそのままよという知恵を出していきゃいい。通じる。そういう時にです力を受けるんです。
だからなら金が足りんなら、金が足りんと言う事だけで、ただお繰り合わせを願う時によってその、金の足りないその事事態が、御神願だと分からせて貰うて、それによって力を受けさせて頂く事が、お礼が言えれる様な信心をしなければならんと言う事が分かるでしょう。それこそ金光様、ご本部参、金光様に道念心を燃やして、もう金光様の側によりとうてよりとうてたまらん。金光様のご信心が頂きとうてたまらん。
というような先生のところならば、御比礼が立つということは、お徳が受けられますということでしょう。お賽銭箱のぐるりやらお供え物の回りばぐるぐる回っておる、生霊の、その先生はどこどこの○○教会の、○○先生でしたがあぁいうところでは、御比礼は立たんとこう仰る。御比礼が立つということは、お徳を受けるから、御比礼が立つのです。だから、お徳を受けることと受けないことを、このくらいはっきり教えておられるわけです。で昨日家の先生方にもそのことを申しました。
もうあなた方はもうそれに、今専念してるんだからね、だから朝昼晩のいうなら勤めぐらい、時間をきる様な事があっちゃ出来ないよち。夜の御祈念が終わる。8時半には終わる。終わると皆バラバラどこそこ行ってしまう。後もう30分間それこそデパートならデパートの勤めが、お客さんがなかけんちいうちから、店員さんが皆どこそこいってしまうならどげんなるね。たまにならお客さんがこらっしゃったらどうなるのと。
たった30分間そこに、あのお広前におると言う事がです、やろうと思いますと、子供でも出きるこっちゃろうがて。そこんところを今きちっと、それこそ真面目に、勤め上げることが今あんた方の修行なんだから。という風に申しましたがです、なら今の金光様のお話しでもそうです、金光様の教師が頂かんならん、しかもそのもう今どきはそげな話し聞かれやせんです。
ような話しをなら、皆さんに聞いてもらうということは、私はあのおかげを受けるということと、力を受けるということとのね、ほんなもう紙一重、自分の心掛け一つで力が受けられる徳が受けられる。本当にどんな場合であってもおどろかんですむ。いやよし自分がです、それこそ姨捨山に捨てられるようなことに、もうよしだからねなってもです、他に捨てられておる周囲の人の事が祈れれるくらいな。そういう時に寂しゅうもう私は、もうここでしまえるじゃろうてんなんてん、そげな実なかことは言うな。
何の為お前信心しとったかと。隣のベットの人んことお願いせろ。ここにおんなさるとば皆お願いしよりゃね、心も晴れてくるし有り難くもなってくる。大祓い信行もどがしこしたっちゃよかお前も寝ながらじゃけんで、というてまぁ懇々とまぁそうとう長い時間話された。それをやはり病室のその、年よりの方達が一生懸命やっぱ聞いて、耳側たてて、聞いておられたということでございます。
だから私ともはその聞く側ではなくて、それが話せれる側にですね、ならせて頂かにゃいけん。どんな時であってもです、力を受けとかんとそれがやはり、痛いことは痛いで終わってしまいます。ただ助けて下さいだけになるです。だから痛いことですから、助けて下さいですけれども、その痛いことを通して信心を分かる。力を受けるという生き方。今年はいよいよ生みなす信心と言われる。その生みなす信心の土台を、私はこの寒修行に求めたい。
そして先ほどから色々申しましたように、しゃんとしにゃ交流は出来んて。始めて生みなされる、それよって、いうならば御用が出来る。合楽建設の願いが成就する。それはそのまま、神様の願いの成就でもあるのです。神様の願いが成就する時に、どういうことになるかというと、自分達が成就すりゃよかという教えるはずありません。神様の願いが成就する時には、私共の願いもまた成就する時なんですよね。
どうぞ。